妄想乙なお話。自分でも笑ってしまう飛躍っぷりだが、腑に落ちてしまった。
追いつめられたからといって、すぐ死ぬのはあまりにも短絡的すぎる。意味のない行動をしても意味のない結果が返ってくることが多い世界になっているから、死ぬにせよ確かな動機と意味が欲しい。生きている状態に意味は存在しないことは僕自身わかっている。であるから、死ぬことの意味を模索することが有意だと考えられる。
わたくし的輪廻転生
最近死にたいと思うことが多い。というのも、生きている意味(人間であり続ける必要性)を見失ってしまったから。でも、ちょっと待てと。そう思った。死ぬことに意味はあるのか。死んだ先はどうなるのか。死んでも生きていても物質的に緩やかに変化をするにせよ粒子の総和は保存されているわけですから、その時の状態にさほど意味はない。では生きているとはどういうことなのか。生きているときは生きているという認識を粒子の作用で構築している。生きているという状態に我は存在するのか?つまり生きている状態を認識しているのが我であるのか?あるいは認識の構築によって我を形成しているのか?私は後者だと思う。そうであるならば、意識を断絶したところで死んだことにはならないのではないのだろうか?意識を形成しうる可能性がわずかでもあるのならば、我は誕生しうるのではなかろうか?そしてそれは時間軸上においても同時に存在しうるわけですし、別世界で知的生命が存在するのであれば、その場所でも同様のことが言えるでしょう。何が言いたいのかというと、今の状態が再現可能であるという認識を持っているうちは死んでも我が死んだことにはならない。ある種の輪廻転生ですが、これと違って時間軸上に複数人の存在が認められる・脱却方法が明確に提示されている。この死ねない地獄から抜け出すためには死に物狂いで世界を変える必要がある。
なんで世界を変えなければいけないのか?
本質的には、偉人になる必要があるように思う。世界は自然な流れによってできているのならば、死ぬという状態は情報の欠落として穴になる。穴があったらそこを埋めるように世界が補填する。であるならば、死んだときに我という情報の欠落があってはならない。偉人になることで少なくとも何世紀かの間は世界から補填を生み出されることはないはずだ。つまり我はもう一度繰り返されないと思う。そして、死というモチベーションは決してたゆまぬものである。そうして結果に向かって奔走していくうちに人生が楽しく変わっていくかもしれない。それで死にたくないと心変わりしたところで努力は残るのですから、火事場の馬鹿力のような思考法かもしれません。
結論:死にたければ世界を変えてみせろ。
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