豊かさで恒久的な幸せを獲得する

ただ生きるではなく、善く生きる。

 人間の大好きなものに、豊かさと幸福というものがある。当然私も大好きだ。私は豊かさは運動であり、また環境であると思う。幸せは行為であり、状態であると思う。

豊かさと幸福

 「豊かさとは何か」によると、豊かさとは情緒・感覚・身体的な「第一の自然」と、科学・技術・生産の「第二の自然」を統一して他者との共存の中で生きることであるらしい。

 アランの「幸福論」を読むと、幸福とは安易に手に入るものではないと言い、鬱から脱出することや、処世術のようなものが記述されている。幸福は持続的でもない。であるから、消費的であると考えられる。幸福は消費的であるとすれば、豊かさは非消費的と言える。

 豊富や豊饒という言葉は、生物によっての地球的な豊かさで、多くの種が共存することである。つまり、多様性が豊さの元になっている。悪い言い方だが、弱者や悪者は必要なものであり、人間という舞台において甚だ立派な役割である。しかしそれがどのような効果を発揮するかを、科学的根拠に基づいて説明することは私にはできない。そのうえで、働きアリの法則や、生産者や芸術職にとって消費者が必要であることも明らかである。その立ち位置は社会的な強制力によって固定されやすいと私は考える。例えば、人はその人達にとって居心地のいい場所を求めようとする。ぐれた人が群れたり、同人を作ったり、あるいは家族を作ろうとする。そういう意味で、非消費的である。また、水や自然は循環するものであり、非消費的である。

 幸福を求めるということは、ほとんどの人間にとって必要であり、すべての人間がそれを拠り所にし、そのために生きている。しかし、幸福で満たされるためには消費的な幸福を求めるのではなく、非消費的な幸福である豊かさを求めるべきではなかろうか?

 豊かさは幸福と違い、子供にとって難しく、大人にとって獲得しやすいものである。しかしながら、子供は大人になった時に獲得する豊かさの深度を変化させるには向いている。豊かさには感受性がついて回ることになるためである。感受性はその人の経験に依存する。その点において大人は有利であるし、子供たちは現在進行形で感受性を獲得する時間を過ごしている。

豊かさを実装するためには準備が必要である

 豊かさを実装するためには2つのプロセスを経る必要がある。1つめは時を獲得し、2つめは時を味わうことである。時間は人間のゆとりをつくる。ゆとりは豊かさの土壌である。人間の持つ時はその多くを労働によって消費する。そのため、労働について真摯に向き合うことがまずなすべきことである。労働のありかたは生活のありかたを左右し、人間の生き方に大きな影響を与える。その次に、時を味わうプロセスが待っている。

労働について考える【就活アドバイス】 – beefst interlude (beef-st.com)

 時を味わうということは、焦らずに生きるということである。それは刺激に対して臆病になるという意味ではなく、欲求をわが物として確立することである。人間は必要に応じて、必要な分だけ思考し、求める。対して、広告は必要かどうかの思考を放棄させ、対象に求めさせる。かくして、人は時を味わう時間や能力を損なっていく。この助言はコンテンツ摂取をやめることを奨励するのではなく、コンテンツ摂取に対して必要性を問うことを呼び掛けている。ミームなどもってのほかである。今まで必要だったからと言って、これから必要になるとは限らない。そういう基本的な欲求は衣食住で括られ、完成している。テレビを見るな・スマホを捨てろと言っているわけではない。ただ冷静になって、もう一度それらの必要性を考えようではないか。

 時を味わうことは、思考し、感受性を育てることでもある。人間にとってデジタル化の刺激はあまりにも強いように思う。だからこそ、弱くて繊細な刺激を感じ取る能力が必要である。時を味わうためにするべきことは、焦らない態度を獲得することである。態度を獲得するということは、態度を念頭に置いて行為を繰り返すことである。とりわけ大人にとって、それは一筋縄ではいかないし、苦しいものでもある。しかし、恒久的な幸福である豊かさは、単なる幸福よりも安くないことは至極当然である。

 時を味わうためにするべき行動は、必要性に立脚した行動である。例えば、長い映画と、その長い映画より多少退屈な短い映画があったとする。その時、長い映画を選ぶか?短い映画を選ぶか?いいや、時間をファクターにするべきでない。私はどのような映画をどうして見たいのか?という問いから選択すべきである。だから、面白いものが見たいのであれば長い映画を見る。ただ映画が見たいのであればどちらでも良いだろう。このとき、サクッと短めの映画見たいという選択もあるかもしれない。しかしそれを私は推奨しない。その場合、最初の問いかけを放棄していると私は指摘する。なぜ見たいのかをもっと深く掘ることができる。そして、その行為こそが時を味わうということの一歩目なのだ。

感受性を育てるために我々ができること

言葉を学ぶことは豊かさを蓄えることだ。
 言語は、誰かに意識を伝える手段として優れたものである。さて、意識を伝えるということはどういうことだろう。意識を伝える場合には、未来の自分に伝える場合と他者に伝える場合がある。未来の自分に伝えるという目的は置いておくことにして、考えるべきは他者に伝える場合である。豊かさとは多様性であった。他者に伝えるということは、他者に伝える必要性があるということである。要するに、多様性がある限りは言語が必要となるのである。そして、言語は他者に伝えることができるように他者から伝えられることにも使われる。つまり、自分の中に多様性を持つことである。よって、言葉を学ぶこととは豊かさを蓄えることにもなるのだ。

内省せよ。
 自分の生き方を認められない・見つけられない人がいる。自分の長所や短所を表現できない人がいる。そういう人は今を生きるのに必死である。内省することでのみ、自分を知ることができる。反面教師という言葉があるが、それは何も他者のみである必要はなく、それが自分であってもよい。自分の非を認め、改めるということは非常に立派で君子然としている。内省することは過去の時間軸で生きて思考することである。過去の自分を知ることによって現在の自分が明確に彫刻され、そして未来の自分の像が浮かび上がるのである。私は、現在からの変化と内省を繰り返すことで、己の多様性を深めることができると考えている。つまり、思いやりのある人間に向かうことができる。思いやるということは、認識することなのだ。過去を知るということは思い出を作るということでもある。思い出を作るように内省するのだ。経験を思い出にすることで客観性を獲得し、新しい経験を許容することができる。歯の奥に詰まったものを取り除くようなことと同じである。

表現せよ。
 世の中にはアートが沢山存在している。アートは見るだけで良いと思う。しかし、よりセンシティブになるためにはアートに取り組むべきだ。熱狂的なファンの多いスポーツには過去・現在のプレイヤーが多く存在しているのである。複数の視点を持つことでアートの深みは変貌する。アートは炭酸の弾ける音のように、木目のように繊細なものである。アートに取り組むということはその小さな声に耳を傾け、虫眼鏡をもつことである。そのような審美眼を磨くことと、誰かに対して思いやりをもつ精神との一体どこが違うというのだろうか?

量的な豊かさ

 さらなる豊かさを作るのは我々である。いままでの項目では、今ある豊かさを知覚するために必要な行為であり、豊かさの質的変化をもたらすものである。つまり、量的変化はない。量的変化はその地域の住民の思想や活動なしには実現しない。今の我々の生活が満足であるかを思考できて初めて、言葉にすることができる。そうでない人は誰かを批判することしか出来ない。その社会において平等は実現しないが、人間は平等への努力なしには豊かな人間社会をつくることはできない。そして、社会保障や社会資本や基準法を整備するとき、それを具体化する人間の十分な数と対応が重要である。ここから先は各自の努力次第だ。検討を祈る。

投稿者: beefst

機械工学,クリエイターをしています.読書も好きです.

豊かさで恒久的な幸せを獲得する」に3件のコメントがあります

  1. どうも。
    私、beefさんがお書きになる文章に以前から興味を持っていたわけでして。
    ・・・妙な日本語でしょう?
    以前から定期的に読んでいた、という意味では無くて、本当に今回、始めて読ませて頂いたのです!眠れない夜もあったものですね。

    読ませて頂きました。
    言葉にある種のフェティシズムをお持ちのようですね?
    なんとも素晴らしい文章です。随所随所で言葉巧みで、なんというか・・・「ファークライ3」というゲームに出てくる悪役、バースを思い出すようです(伝わることを祈ります)。

    幸福といった抽象的な物事に対する他人の見解(あるいは一冊の書籍の二番煎じと言うべきか)とは、時間を割いてでも伺う価値のあるものだと改めて思い知らされました。

    ただ、その価値の純度を高める意味合いを含めて敢えて言わせて頂きますが・・・序文の裏付けとなる内容が本文に示されていなかったので、そのあたりをいつか纏めて、文に表してみて欲しいです。

    例えば・・・
    豊かさは運動であり、また環境である。
    時を味わうといった後述の内容から「運動」であるだろう事は推測されるのですが、「環境」でもあるというのが文章からは理解できなかったのです。
    あなたが幸せを「状態」と定義する根拠とは?それとも或いは、「行為」の後に来るものなのか、それに依って立つものなのか?

    滋味あふれる文章で読者を酔わせるのは素晴らしい事ですが、小手先の目眩ではなく、あなた自身の見解がこそ、私の酔いたい、酔わせて欲しい代物なのです!
    結論と理由付けの絡み合った文章の組み立ては、きっと創作活動にも活きることでしょう。
    本当は真意を伺った上で語りあいたいというのが真実ですが、そのような「非消費的」な行動を行う為にもぜひ示して頂きたい!

    そして私が何より知りたいのは、
    「善く生きる」の

    善く

    とはこの文章で何を示すのかということです。
    豊かであることか、幸福であることか。
    そこが一番知りたいのに!

    昼下りのどこか、例えばどこかの研究室のパソコンやらの前で、持て余したシミュレーションの計算時間などを潰すにはとっておきのトピックとなることでしょう。

    ご返事お待ちしております。

    まだ6月も序盤だというのに、既にクソ暑いこの頃、お体には十分ご注意下さいませ。
    それでは。

    いいね

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