サイエンスアーティストの問題解決【何者かになりたい人へ】

 経験的な物事で話すのはサイエンスアーティストとして間違っていると思う。それを承知しているが、アートを盾にして経験で物事を語ることを許してほしい。

 すごい人になりたいならば、しつこく続けるのだ。環境に投資するのだ。

その自殺に意味はあるか。 – beefst interlude (beef-st.com)

 上のリンク内でもそんなことを述べているが、何者かになりたい欲求が私はある。何者かになるために必要なものはおおよそ環境である。もっと言えば、幼少期の環境である。突き詰めると、運である。私には運があるのかないのかわからない。しかし、私は何者かになりたいので、運がない初期条件に置いて、適切な努力を行うことによって解決したいとあがいている。そして、可能であるという確信を持っている。

 私は過去の失敗を糧に、サイエンスアーティストを志すようになった。サイエンスアーティストというのは、アートとサイエンスを混ぜたものだ。イノベーションだ。私は心理的な領域に関しては踏み込み、研究し、これ見よがしに結果を出そうとは考えてはいない。私の現在のベンチマーク的サイエンスアーティストは、アートと分析・生産管理などの分野との融合である。

 結論からいうと、アートのうち、言語的要素のうち、精神的な部分に対して最も投資を行い、技術的要素はより早く・多種類・誰でもできるようにすることを目指すべきだ。技術的要素は近年の芸術励行・知見の蓄積もあって分解されてきている。はっきし言って、すでに誰でもクリアできる。一つの道をただ極めたとしても、何者かになるという目標を叶えることはもはやできないのかもしれない。

 それでは、何を語るべきか。私が語るべきなのは草分けと効率化だと確信している。なぜなら、早く成果を上げたい人が多いということと、効率化は多くの人の心に響く言葉だと知っているからである。そして、多くの人は何を取り組むべきかをわからぬまま挫折し、諦めていくことも知っているからである。

創作というタワーディフェンスゲーム

 天は二物を与えずという言葉がある。それは昔の話だ。インターネット社会の前は、情報は甚だ高価なものであり、質の高い情報を複数分野で手に入れることができなかった。そういう傾向が作った言葉だ。それに対して優れた科学者はどうだろうか。例えば、寺田虎彦は物理学者としても随筆家としても有名な人物である。最近の例を挙げれば、大谷翔平はバッターとしてもピッチャーとしても一流である。確実に、パラダイムシフトは起こっている。まあ、本当はインターネット社会以前もプラトンみたいな傑物もいましたけど……。

 それはそうとして、実際のところは複数のものごとに取り組むのは非効率だと思うかもしれない。だがそうではない。複数の物事に取り組むことには視点を加えるという大きなメリットがある。例えば、数学を学ぶことで思考方法に関してのカバーができるが、手先の器用さや、発想法を身に着けることはできない。そういう見方ができる。同時に、必要性も感じていただけると思う。これこそが、「何者か」を生み出す魔法なのである。デメリットを隠していると思うなら、回答しておく。それは最近なくなった。それは序盤に述べた、技術的要素はインターネット社会によって解決された、ということだ。ここで、キーワード「創作というタワーディフェンスゲーム」を提唱し、考えていきたい。創作に限った話ではないが、上達はフィードバックによってなされる。つまり、差分をとって、その差分はなぜ生じたかを考え、問題点を解決する方法を取るのである。また、非常に煩雑な多変数関数である。すなわち、次々に攻めてきた敵に対応するタワーディフェンスのゲームに近いものがある。アートに置いては気付いたらできている場合もあるが、それは問題点を無意識下で反芻することによって解消しているのである。それくらい、心理的なものでもある。心理的なものではあるが、それをそう扱わないのが、サイエンスアーティストとしての態度である。

 改善手法に関してはトヨタ生産方式やその他生産管理の書籍を読んでいただきたいが、大雑把にいうならば、「なぜ」起こったかの分析、パラメータ化、投資(時間を含め)のサイクルを取る。「なぜ」起こったのかがわからない場合は、考えることを半ば放棄するべきである。何がわからなかったのかを記録しておき、そのうえで忘れてしまうのである。そして、別のことに取り組み、能力開発を終えたうえでもう一度問いに挑むのである。パラメータはしばしば効果逓減を起こす。これがなかなかに厄介なものである。

 効果逓減に立ち向かうためには考え方(焦点)を変えるか、先ほど述べたようにやめてしまうかのどちらかを取らなくてはならない。考え方を変えるためには新しいものを取り込む必要がある。そうすることで、以前とは異なる自分で物事を考えることができるようになるのは当たりまえのことだ。とは言ったものの、このような改善はタワーディフェンスのように一筋縄ではいかない。タワーディフェンスでは、負けることによって勉強していく。タワーディフェンスでは自分の盤が数値化されたものなので、負けた原因が明確である。創作においてはなぜ負けたかについては自分で原因究明をおこなわなくてはならない。

 原因究明に関して言えることは、最も簡単な方法が辛辣なアドバイスを言ってくれる味方を作ることであることと、原因の分析によって得られる答えは必ずと言ってよいほど間違ったものものであるということである。

二面性

 木を見て森を見ずという言葉がある。これはディティールにフォーカスしすぎて破綻していることを咎める言葉である。だが、創作においてはこれは悪いこととして結論を急いではいけない。逆に、森ばかり見て木を見ない場合、凡作になることは約束されている。つまり何が言いたいのかというと、森を見ながら、木を見なくてはいけない。これは四次元的な視点であり、不可能である。しかし、このようなことが創作に置いてはしばしば要求される。

 結果を急ぎ、生き急ぐ人がいる。しかしどうだろう。体を犠牲にして獲得した名誉は本当に幸福なものなのだろうか?体調を崩し、病を患うことで本来その先にあった名誉を失っていないだろうか?タワーディフェンスでは、とにかく負けるが、焦ったところで勝利に貢献しないという冷静さをもっていることに気付くだろう。なぜゲームの外に出た瞬間、そのことを忘れてしまうのだろうか。かといって結果を急がないことを推奨しているわけでもない。なぜなら時間は限られたものであるから、である。ここから学べることは急ぐべきものとそうではないものが存在しているということである。急ぐべきものは急いだほうがいいのである。例えば、ささいなタスクを終わらせることは急ぐべきである。複数のタスクをもつことは、たとえ些細なタスクであったとしても思考を鈍らせる。そういうものは仕組化していくのが吉であると賢者は知っている。

 得るべき二面性はまだまだある。マーケティングを学ぶことと、マーケティングに支配されないこと。こだわりを持つことと、周りの意見もとり入れること。効率化をすることと、非効率なものの導入。平穏な心を持ちながら、焦る気持ちを抱くこと。良い視点での評価と悪い視点での評価を行うこと。冷徹でありながら、温情を持つこと。思い込みを持たないようにすることと、思い込みを持つこと。……など。

 二面性が作りだすのは、柔軟な精神そのものである。柔軟であるほどにより独自の自由さを求めることができるのである。その自由さがアートとして評価されるのである。

 では、このような視点はどのようにすれば身に付くのだろうか?これはドラムをすることで知ることができる。ドラムは一見手足をばらばらに制御しているが、彼らは考える場所を絞ることでそれを実現している。つまり、無意識の力を利用しているのである。意識下と無意識下の思考をそれぞれ相反する事象にフォーカスすることでそれは実現される。また、意識もドラムと同じようにそれぞれ単一の処理に分けて練習することで身に着けることができるように思う。そして、組み立てることで一見不可能なことが実現されるのである。

精神

 執着心を持つことが大事である。これは分析分野でさえ言われることである。精神論は何も解決しないと考える人がいるのを知っている。私もどちらかというとその立場である。しかし、精神が我々に与えてくれる力は測りしれない。ゾーンに入るには自分を脅迫するほどに追い込んだり、好きにならなくてはいけない。いずれも精神的だ。リミッターは我々を守るために備え付けられたものであるが、筋トレをするモノはそれを乗り越えるために自分の将来の姿を想い描き、鼓舞している。精神的だ。一方、一流の音楽家やアスリートを見てみるとどうだろう。彼らは思慮深く、哲学を持って生きることを当然としている。これを偶然だと思ってほしくはない。普通に考えると、精神は原因でも結果でもない。しかし、実際はそうではない。精神の上に全てが構築されているのである。

 それが正しいとして話を進めてみると、大変だ。我々は常に様々な成果を阻害する要因にさらされているではないか。人間を作るのは環境である。人間を作るのであれば、精神も当然、環境に従属しているに違いない。なので、我々は環境を制御することがはじめに為すべきことだとわかる。環境を制御しないということは、我々の将来に運が占める割合を大きくする同義だと思っていただきたい。では、環境を選ぶということはどういうことなのかというと、分かりやすい例は学校に通うということだ。学校に通えば情報が手に入ったり、同じような情熱を持った人と手に入る。あるいは、引っ越してみるのもいいだろう。ビル街で窮屈な思いをしているより、自然の多い土地でそこそこに広い家に住んだ方がよっぽど心に優しいだろう。それらが絶対に正しいとは言い切れないし、複雑な問題である。しかし、投資する価値が十分にあるということをわかっていただきたい。

投稿者: beefst

機械工学,クリエイターをしています.読書も好きです.

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